昭和51年06月11日 朝の御理解
御理解 第49節
「信心は相縁機縁。」
これは信心だけのことだけではありません。やはり相縁機縁というのがあります。本当に縁というものは実に面白いものだとこう、そこでただ相縁機縁だとか、また本当に縁とは面白いもんだだけではいけん。それは生きておかげになってこなければならない、ということだと思うんです。私は今日はこの49節を、好き嫌いと言った様な意味で聞いて頂きたいと思う。好きな物嫌いな物、好きな人嫌いな人、いろいろございます。そこからもう良いおかげの縁が生じてくるおかげを頂くために。
これはもう御理解第49節と言う事ですけれども、49節と言う事は始終苦労と言う風に頂く。49と言う事はいつも苦労と。いつも苦労と言う事はお道の信心では、いつも修行という意味なんです。苦労とは言いません。修行といいます。いわゆる教祖様が一生が修行じゃと仰る。私はこの相縁機縁と言う事を、私共が心にかけさせて頂いておりますと、日々一生がやはり修行という心で、この御教えを頂いたらおかげ頂くと思うですね。よく私が申します好き嫌いということから申しますと。
これは皆さん体験がおありになるでしょうけれども、やはり食べ物でもそうです。好き嫌いがあります。好きな物はどうしても食べ過ぎます。いや好きな物のために命を落とす様な事すらあります。嫌だ嫌いだと言う様なものは沢山食べませんから、それでもやはり神様のお恵みの物だと思うて、頂いておりますとそれも段々頂けるようになる。大体この好き嫌いというのはもう贅沢です。これは私共が北京に行っております。私も大変子供の時から好き嫌いが多かった。
魚は食べん肉は食べん。魚を食べるというても、白身のまぁ鯛の浜焼きか塩焼きか。川魚なら鮎の塩焼きくらいしか、魚というたら食べませんでした。第一肉が食べきれなかった。もう野菜ばっかり、漬物が大好きでしたからよく言われました。お前はもう坊さんにどんなるがよかたい、魚も肉も食べんならというて、言われるくらいに食べれませんでしたけれども。さぁ北京にまいりましたら、もうあれがすかんとか、嫌いとかと言うちゃおれんのです。
もう第一あのもう町中がにんにくの臭いでぷんぷんしとる国柄ですからね。もう第一にんにくを頂きならいました。お肉も豚肉でも牛肉でも羊の肉でも、いやもうこのおなかの中の臓物のものまで、あのう好物になりました。そして先ずは嫌いな物、食べきらないものはないというくらいにおかげを頂いた。やっぱり精進です。そしてそれを思うのにです、やはり栄養が偏らないですむおかげ。いうなら健康保持のために、大変ならおかげを頂いておる事になります。これは食べ物の事。
好き嫌いというのは、先ず神様がお嫌いになる心だというてもよいです。例えばこれが食物ぐらいならまだよいと致しましてもです、これが人と言う事になりますとね、人間関係と言う事になりますと、それこそ人を軽う見な軽う見たらおかげはなしと、仰せられますのですから、その事だけでもおかげはなしと断言しておられます。あの人は顔を見るとも好かんちいうごたるとが、おるとはおりますもんねやっぱ。かと思うと本当になんとうはなしに、もじょもじょするごと好きなとがおります。
これは皆さん体験をしとられます。もう本当にもうあげな奴は顔も見るごとなかちいうごたると、そこんとこを生神金光大神様、これでは自分の間違い、これでは神様のご無礼だと分からせてもろうて、好き嫌い本当に神様の氏子としての見方、ですからそこには間違いがありません。不思議にねそういう人達を大事にさせて頂いておりますと、その人がおかげを持って来てくれるです。これは不思議です。はぁどうも感じが悪いと言う様なのをです、いうならば神様の氏子として大事にさせてもらう。
そこに一つの相縁ではなくても、機縁が生まれたのですから、その人と相対しなければならない縁が出来たのですから、もうあん奴ばっかりは一番初対面の時から嫌いじゃった、というのではなくて、そういう感じがおこったならばです、神様の氏子として見るのです。そしてなら実意丁寧に、それこそね祈願詞じゃないけれども、愛を持って接するのです。愛をもって接するとか、又は親切をもって接すると言う事が、今度のお道の信心を外の方に伝えて行くと言う事の中に、この願い詞の中にございますね。
だから自分の好ましい人感じのよい人には、親切を持ってしたり愛をもってしたりは出来るのですけれども、感じの悪い人嫌な人には、いわば顔も見るごつなかと、ものも言おうごつないというのが、やはりあるのはあります、やっぱ虫がすかんという場合あります。けれどもそこんところが信心で神様の氏子としての見方。そしてとりわけやっぱしと言わなきゃならないでしょうね。とりわけの心を使わなければ中々出来ません。
心で嫌だと思っておってもなら言葉でも、その愛をもって親切をもってと言う様な気分をもって表して行く。そこからね不思議な縁が生まれてくるです。縁が育ってくるです。例えば人から嫌われる人と言った様なんは、大概誰でん好きませんですもんね。だから誰からでも好かれる人は誰からでも好かれる。ですから好かれん人がです、ならたまたま親切会う。愛の心を持って接せられる。
そすとそれが大変嬉しい事になって来るんです相手には。なら例えば私共人間ですからいうならそういう、好き嫌いが大変言うたら激しいのです。けれどもやはり神様の氏子として見る。なら愛を持って親切を持って接する時です、その愛を親切を相手が受けてくれる、交流する。そこから今度はならまた親先生、親先生とまぁいうなら慕うてこられるとしましょうか。もう今度はその人でなからねばならんごとのものが、生まれて来るから不思議です。だけではないその人がもう本当におかげを持って来てくれるです。
私は今日は皆さんに本当にここんところをね、あのう心にかけさせて頂くということがです、私は四十九節だと思うです。一日のうちにでもそう言う事はいろいろございましょう。嫌だとか嫌いだとかと言う事がかございましょうけれども、その嫌だ嫌だ嫌な人というそれを愛を持って親切を持って、いや何事にも信心になれとおおせられる信心を持って接していく時にです、いうならば奇縁が相縁になると言う事であります。
ですからそれとは反対に、いうならば好き過るもののために、命を落とす事すらがあるのですから、お酒の好きな人が、はぁこれでもうやめとこう、もうこれでやめとこうと思うてもやめられずに、とうとうあの人は酒で命を落とした、というのがありましょうが。甘い物が好きなために、胃を悪くする人もあります。だから好き過る。可愛らしいとか、好きたらしいと言う様な心が起こったらですね、それを押さえる精進が必要です。これも修行です。
それこそ好きだから好きたらしいからと言うてです、撫でさすりしよりますと、かえって相縁の芽がつぶれてしまいます。根が枯れてしまいます。だからそういう場合はです、たいていおさえとっていいです、言うならば好かん振りしとる位でちょうどいいです。だから、なら反対に嫌いな方は好きな方をしたらいいのです、バランスがとれておるんです。四神様のお言葉の中に、「憎い可愛いをとれば、お徳が受けられる」という言葉があります。憎いという心もいかん、可愛いという心。
これは可愛いと思う心は神心じゃというあの可愛いとは違うんです。今日言うのは好きたらしいと言うのです。それこそ吸い付きたいほど好きな人と言う様な言葉を言いますね。そういう時です。そういう時にはブレーキをかけるというかね、心を押さえるという行き方をしないとバランスが崩れます。その好きたらしいもののために、命を落とすような事にすらなるのです。いわゆる神様がお嫌いになる心であると同時に、神様がお嫌いになる行動というですか、になって来る訳です。
言うならば片ひいきと申します。この前の時の同窓会の時に、学校の小学校の先生がみえられまして、その時に先生あなたはそうにゃ片ひいきしよりなさったですもんねち、今でも忘れませんよち言うてから、今だ恨んどったのですから。そげな事はなかがのち、いいや誰でんこの先生は誰々さんだけはばされ可愛ござったっち。そうじゃろうかち先生も言いよんなさったけどね、もう片ひいきされる位嫌な事はないですよね。しかもそれはね、神の気感にかなわんのです。
片ひいきしようごと好きな人の場合は押さえる程度でいいです。それが私は修行だと思います。嫌いなのを好きな精進をする事が修行だと思います。なるほどそうして見ると、これは四十九節ということでしょう。一生これには取り組まなければいけないということになります。合楽の場合は私と皆さんの場合、案外バランスがとれとるでしょうが。そりゃありますよ好きやら嫌いやらが。だから都合よう言われとる人は、嫌われとるですよ反対に。いわば自分の心がね、いうならばバランスがとれません崩れます。
そこからね、例えば相縁でかえっておかげを落とす事があり、奇縁でおかげを生みなして行く事がある。そのバランスをとって行くと言う事が、今日は修行だと聞いて頂きました。しかもこれは人間の事ですから、一生やはりこの修行はいると言う事であります。今日からのいうならば新運動に私共も参画させて頂きます。自分の好きな人には話をしていくけれども、嫌いな人には話していかんと言う様な事ではいけません。
むしろ人が構わんような人が、取り合わない様な、人が皆んなからいうならばお粗末にされとる人ですから、そういう人達を私はとりわけ大事にして、愛をもって親切をもって語りかけていく、と言う様なおかげを頂いていったらね、必ず私はおかげ頂くと思うですね。創価学会であの折伏するですね。もう村内で嫌われておるごたる人、もう人が相手にしないような人に、一番初めに目をつけるという話を聞きました。そう言われてみると本当に確かそんな傾向があるようです。
ですからこれは創価学会の真似をする訳じゃないけれどもです、世の片隅とかね、または人に相手にされないとかと言った様な人達をです、いうならとりわけ信心の心をもって、いうならば愛を持って親切をもって語りかけて行くと言った様なおかげを頂いていくと言う様な事が、新運動のまた眼目のいわば内容になってこなければならんと言う風に思うのです。どうぞひとつ試してみて御覧なさい。勿論嫌いなものが好きになる事で栄養がかたよらない食べ物でもそうでありますようにですね。
特に人間関係の場合、もうどうもあの人ばっかりは虫がすかんと言う様な人をです、むしろそれが好きになる様な精進をなさって下さい。その精進こそが修行なんです。その人がおかげを持って来てくれるです、間違いないです。これは私の永い体験から言う事です。本当に自分のいうなら好きたらしい人は、却っておかげを落とす様な結果にしかならんです。ですからその辺のバランスを私は考える事、そのこと事態が修行です、今日は四十九節。いつもそういう精進を心にかけさせて頂く事が心行にも繋がる事ですからね。
どうぞ。